かけだし弁護士の頃 (9)
かけだし弁護士の頃 (9)
1985.4.6
桜は7~8分咲き。
今日はこれから淡路島まで出張。破産事件の差押・封印執行。
そんなに何回も行ける所ではないので、現地でできるだけ処理を済ませる予定。
4.7
平和公園に桜の花見に行こうと、妻がおにぎりをつくったが、あいにくの雨。家族で家で食べる。
雨の日曜日。手持ち無沙汰なので、夕方、初めて碁会所に行く。
1級として4局打ち、2勝2敗。
※囲碁は子供のときに父から教わりました。現在初段各です。めったに打つことはありませんが・・・
次女が4月から公立幼稚園に移る。
私立の幼稚園に半年通ったのだが、家族5人遣り繰りする中では経済的に無理があったので、公立に変わったものだ。
次女は、そんなことは気にせず、元気だ。
4.10
今やっているのは、ほとんどが事務所の事件である。
私個人の事件は、刑事の私選事件が1件、これも事務所から回してもらったものだ。
刑事の国選事件が5件。破産事件が3件。それだけだ。
独立して事務所を維持していけるようなものではない。とてもではないが、無理だ。
それが現実なのだ。
4.11
名城公園でテニスをする。
テニス仲間のG弁護士の話では、「安定してから独立」などと考えていると、いつまでたってもそのときは来ない。
思い切って独立することが大切。その後は、人が人を呼んでくれるとのこと。
4.13
体重が増えない。逆に減っている。今65キロをきっている。
YMCAに週3回通い、トレーニングしていることが、過重なのだろうか。
土曜日もほとんど出ている。忙しくて、とても休める状態ではない。
4.15
歩け歩け大会。養老まで行く。長男は不参加。
10キロほど歩く。長女が、どんどん先に行ってしまい、ゴールまで会えず。
養老の滝を見る。
かけだし弁護士の頃(8)
かけだし弁護士の頃(8)
1984.12.26
事務所の引越し。上前津に移転する。
新事務所は、かなり広い。
考えてみると、私は日中はほとんど事務所にいない。
あちこちの裁判所を駆け回り、事務所には、午後遅くに戻る。
それでも、広くなるのは良いことだ。
1985.1.3
魚津に戻る。父の葬儀の際お世話になった方への挨拶などを済ませる。
小学校のときの同級生であるH氏の家に寄る。
彼はひょうひょうとした人物で、理系が得意で、小学校の頃からラジオなど作っており、私も真似てラジオを作ったものだ。
高校で進路が分かれたが、私はその後も時おり彼を訪ねている。
私がT大学に入ったときは、「えらいところに入ったな」と言って笑った。
裁判官になったときは、「えらいものになったな」と言って笑った。
その時以来だから、10年ぶりとなる。
考えてみると、私は節目節目で、彼を訪ねていることになる。
1.8
名古屋YMCAに入る。
新しい事務所がすぐ近くだったからだ。
30代以上のビジネスマンを対象としたスポーツ・コース(BMC)入会を考えている。
会費は、入会金が2万円、年会費8万2000円と、今の私には高い。
しかし、汗を流してストレス解消し、交友を広げる場が、必要だ。
そのことが精神の安定に役立つことは、経験的に理解している。
※YMCAには、現在も参加しています。ここで多くの仲間を得ることができました。
⇒YMCAと私
2.19
YMCAに入って1ヶ月。
ジョギング、ウエイト・トレーニングを続けている。
税金の確定申告の結果、10数万円戻る。
つまり、昨年の収入が少なかったということだ。
4.4
N弁護士の事務所での研究会に参加する。
テーマは、「借家権価格について」。不動産鑑定士の方も参加されていた。
研究会は有意義だったのだが、その後の夕食会はどうだったか。
魚料理店にて活き作りの注文、勘定は一人6200円。
外で飲む機会は、私には、金と時間と体力の浪費に思えてしまう。
次回からは、研究会が終了したら帰ろうと思う。
名古屋に来て1年が経つ。
昨年4月3日に、この家に入った。
咲き始めた桜を見て、1年前を思う。
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かけだし弁護士の頃(7)
かけだし弁護士の頃(7)
1984.10.29
妻が行政書士の試験を受験する。
資格を取り、将来、私の仕事を援助することが目的であり、その協力はありがたい。
反面、それだけ今の私が頼りないということでもある。
家族に心配をかけないようにしなくては・・・
10.31
札幌地裁に行く。
北海道に行くのは、1969年、大学2年のとき、北大であったテニス部の七帝戦以来だから15年ぶりだ。
そのときは、我々下級生はカンカン踊りをやらされたのだった。⇒テニスの仲間たち
11.10
父の見舞いに魚津に行く。
父は自宅で寝ている。
足腰が痛いので、ほとんど動けず、便所までの数メートルを母に手を貸して貰い、杖にすがって歩く。
意識はしっかりしており、体が動かないことが情けないようだ。
夏に会ったときは普段と変わらぬ元気な様子だったのと比べて、その衰弱ぶりは驚くばかり・・・
放射線治療、抗がん剤の投与を受けているが、その副作用なのだろうか。
11.19
歩け歩け大会のゴール大会。
今年は、歩け歩け大会によく参加した。ヒマだったのだ。
知多半島の野間駅から内海駅までのコースを、2時間以上かけてみかん畑の間を歩く。
晴天で、気持ちよかった。
長男は、テレビのキン肉マンを見るとのことで不参加。昼食のおにぎりを置いて行く。
12.2
父の見舞いに帰る。兄夫婦も戻っている。
父は、先日から労災病院に入院している。
意識はしっかりしており、自分の葬儀の手はずを考えていると、母が言う。
墓は、現代の標準的なものとし、その旨を墓石に書いて置けという。
教師として社会、歴史を教え、定年後は郷土史家として調べ物を続けてきた父らしい発想だ。
12.17
父が亡くなり、葬儀も終わる。
この夏、肺腫瘍と診断されてから、わずか半年足らずであった。
14日通夜。
16日葬儀。
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かけだし弁護士の頃(6)
かけだし弁護士の頃(6)
1984.9.13
裁判所の破産係りから電話有り。破産事件を受任する。
家に帰るのは、午後8時過ぎ。寝るのが10時過ぎ。
家ではほとんど仕事はしない。休日も自由に過ごせる。
裁判所時代は、判決書きは家でしており、休日はたまった判決を起案する日に充てていたため、精神的に休まるときがなかった。
生活が大きく変わったことになる。一番有り難い点である。もう戻りたくない。
9.21
司法研修所同期・同クラスのH裁判官亡くなる。
彼とは、裁判官時代、大阪で1年間一緒に過ごしたこともある。
ひょうひょうとした人物で、雑念の少なさを感じさせる人だった。
肝臓が悪いということで、宴席でも酒は一切たしなまなかったが、やはり肝臓が原因らしい。
今春の私の弁護士転出の挨拶に対し、彼らしいさっぱりした返信が来たのも、ついこの前の7月のことだった。
残念であり、逢う瀬の貴さを思う。
※私は司法研修所27期でした。Hさんをはじめ、クラスの仲間でテニス合宿に行ったこともあります。楽しい時期でした。
司法研修所の仲間たち
10.3
M弁護士の紹介で、事件の依頼を受ける。
私の個人受任事件としては、初めてである。
M弁護士はテニス仲間であり、いろいろと気遣って下さる。本当にありがたいことだ。
10.7
中日健康ウオークに家族で参加する。
日曜朝のテレビの「筋肉マン」が見たいと、長男が抵抗するのを、無理に連れて行ったのだが、少し強引だった。悪かった。
黒笹駅に車を止め、電車で三好ヶ丘の駅に行く。そこを出発点として、愛知池の周りを歩き、黒笹駅に戻る。
愛知池の眺めは、素晴らしかった。9キロの道のりだった。
※数年後に私は東郷町に引っ越すのですが、新居は愛知池の近くでした。
現在(2002年5月)も、早朝、愛知池を走っています。走りながら、家族で歩いたこのときの情景をよく思い出し、時の流れを思います。
10.22
共済掛け金半年分13万円、住民税3か月分7万円などの支払いがあり、収入だけではやっていけず、貯金を取り崩す。
家賃は、毎月10万円である。将来の独立を考えると、貯金は残しておけなければならないのだが。
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かけだし弁護士のころ(5)
かけだし弁護士のころ(5)
1984.7.31
父がガンの疑いで入院。寝耳に水で驚く。
定期検診で肺がんの疑いを示唆され、精密検査のための入院だという。
本人はいたって元気とのこと。
検査結果が判明するのは2週間先とのこと。大したことでなければ良いのだが・・・
8.2
しらさぎ号で帰省。富山に着き、そのまま父の入院している中央病院に行く。
右肺に腫瘍ができており、手術の必要がある。そのための体力検査などしているらしいのだが、そのことを父は詳しく知らない。
母も同様である。
父の病気、入院、これは動かしがたい事実だ。ならばそれを踏まえて、少しでも明るく、力を併せて対応していくべきだろう。
8.3
家族で魚津の水族館に行く。多分2年ぶり。
2年前にきたときは、父も一緒だったのになどと感慨にふける。
9.1
次女が幼稚園に初登園。楽しかったらしい。
ふと思う。私はこの10年間何をしていたのだろうと・・・
何も足がかりが無い。名古屋には。
覚悟していたはずだが、ゼロからの出発は不安を伴う。
一人で考えていると、憂鬱になるときがある。
9.11
H銀行の方が2度も尋ねてきたというので、こちらから電話してみたが、預金の勧誘だった。
H銀行は私の故郷の銀行であり、友人もいるので、仕事の依頼かと勝手に期待していたので、ガッカリした。
裁判官を辞めて日が経つにつれ、公務員時代の安心感の記憶は薄らぎ、あせり、不安が増していく。
いつか伸びるためにも、足場慣らしはあせらずに、じっくりとやらねばならないことは分かっているつもりなのだが・・・
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かけだし弁護士の頃(4)
かけだし弁護士の頃(4)
1984.6.28
明日は、浦和地裁に出張だ。
裁判官のときと違い、出かけることが多い。体力勝負といわれるゆえんだろう。
6.30
浦和の事件の相手方のY弁護士。
土浦時代に、私が裁判官として彼の弁護する事件を担当したことがあると言われ、内心ドキッとする。
幸い、悪い印象は持っておられないようだったが、冷や汗をかく。
7.15
名古屋の司法研修所27期の同期会に出る。
明治生命ビル15階「かもめ」にて。なかなか立派な店であり、料理である。もちろん値段の方もだ。
集まった仲間は弁護士歴10年の働き盛りであり、自信にあふれている。声も大きい。
もちろん、私は違う。弁護士歴1ヶ月の私には、会費の負担が重い。
その後、K弁護士と2次会に行くが、そこも私には縁のない場所だった。
7.18
私道に突然家を建てられてしまった事件。
高値で買い取らせようとの魂胆がみえみえだ。悪い奴もいるものだ。
弁護士会の民暴センター、愛知県警、瀬戸警察など、あちこち回る。
しかしながら民事がらみということで、各機関の対応は、総じて反応が鈍い。
こんなときが弁護士の出番なのだ。仮処分を申し立てることになるだろう。
7.24
人脈を広げようと考えて、富山県人会に電話していろいろと事情を聞く。
富山出身の弁護士を紹介され、自宅を訪ねる。
明治生まれの方で、名古屋弁護士会長をも経験された方だが、今は高齢となり、夫婦でひっそりと暮らしておられた。
「富山県人はケチで、県人会といっても会費を取られるばかりだった」、しかしながら、「入っておいて無意味ということはない」などのアドバイスをいただく。お年の割には記憶のはっきりした方であった。
※富山県人会には、数年間顔を出しましたが、最近は行っておりません。
7.27
ユダヤ格言集から、
「人生を楽しく生きるのは、神に対する義務である」
「毎日新しいことがある。これは神の贈り物である」
旧約聖書を読もうと思う。
なぜか、宗教に関心が引かれる。
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かけだし弁護士の頃(3)
かけだし弁護士の頃(3)
1984.5.20
弁護士有志主催の中野好夫氏の講演会を聞く。
「人は動物に及ばず」という。
久しぶりに大学の講義を聞いたような感じだ。
5.26
破産の研究会に出る。
破産事件が急増しているらしい。
この分野の勉強をしよう。
車、中古のカローラを65万円で購入。
※カローラにはその後5年間ほど乗り、サーフに換えました。
5.30
このところ、朝6時半ころ起きる。
子供たちは、もっと早く、6時前には起きて騒いでいる。元気なものだ。
早寝早起きとなり、裁判官時代とは、明らかに生活の時間帯が変わった。
私にはこのほうがあっている。
裁判官時代は、深夜まで判決を書いていたものであり、今思えば、不健康な生活をしていたと思う。
帰宅は夜8時ころであるが、帰ってすぐ、猪高小学校のあたりまで走ってくる。
6.1
車の運転の練習。
土浦の3年間は、車を持たず、運転しなかったので、運転にすっかり自信がなくなっている。
6.2
借金に追われている経営者から聞いた話。
債権者の中には、高利貸し、組関係者もいるらしい。
「保証人に迷惑をかけたくない」、「なんとか会社を続けたい」というのが、社長の希望。
しかしながら、虫のいい話である。赤字では経営が続けられるわけもなく、おそらく破産しかないだろう。
このような分野では、裁判官時代の経験は無力に近い。
6.3
長久手にある青少年公園に行く。
子供と、サイクリング・コースに入ったところ、子供の方がずっと先に行く。あわてて追いかける。
とても素晴らしい公園であり、1日遊べるところだ。土浦にはこのような素晴らしい公園は無かった。
さすが名古屋は進んでいると感心する。良いところに来たと思う。
※青少年公園に初めて来て、素晴らしいところだと感心しました。その後家族で何回も訪れました。
子供のピアノ発表会もここでありました。万博の会場として取り壊されることは、本当に残念です。
6.15
待ちに待った弁護士登録がようやく完了した。
3ヶ月近くかかったことになる。
失業状態のこれまでから、これで晴れて、1人前の弁護士となる。
子供の誕生日と併せて、お祝いをする。
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