かけだし弁護士の頃(16)

かけだし弁護士の頃(16

 

1985.10.27

 知人の紹介で、近くの愛知教会に行く。

 なんとなく、心が休まるようだ。

 これからも通ってみよう。

 

  • ※ 子供たちが愛知教会の日曜学校に通っていたことなどから、このころ私も教会に通うようになりました。

 

10.28

 飼っていたハムスターが亡くなる。

 早朝子供たちが起きだす前に、庭に埋葬する。

 次女が起きてきて、ハムスターがいないことに気付き、大声で泣き出す。

 泣いているうちに興奮してくるらしく、何を言っても聞き入れない。

 「もう一度顔を見たい」と固執する。

 しばらくして涙は止まり、笑顔も戻った。

 妻は、「私たちが亡くなったとき、これだけ泣いてくれるかしら」などと言う。

 

11.15

 弁護士会5階ホールで、名古屋法曹バロック・アンサンブルの演奏会を聞く。

 なかなかの腕前と思えた。

 

11.24

 家族で設楽農学校に行き、20キロほどの味噌を作る。

 6ヵ月後に熟成するとのこと。

 それまで置いてもらう。

 

11.27

 青木仁子弁護士から名古屋法曹バロック・アンサンブルへの参加を勧誘され、迷っている。

 10年以上前に買ったバイオリンを出して、弾いてみる。

 練習するとすれば、朝の時間しかない。毎日、練習が必要だろう。

 やりたい気はある・・・

 

  • ※ 結局、名古屋法曹バロック・アンサンブルに参加するようになりました。

毎年夏の合宿、秋の演奏会と、楽しく参加させていただきました。  

 

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かけだし弁護士の頃(15)

かけだし弁護士の頃(15

 

1985.9.30

 名東図書館で、「農民志願」(岡田米雄著)借りて読む。感銘を受ける。

 自然と向き合う生き方。このような生き方に接しなくなって久しい・・・

 仕事を通じて、真実なものに取り組みたい。

 

  • ※ 農業には以前から関心があったのですが、名東区の借家では場所がありませんでした。

東郷町に来てからは、家庭菜園を楽しんでいます。⇒私の休日農園

 

10.10

 弁護士会のテニス大会。鳴川杯。

 試合のある長久手グリーン・テニスクラブの場所が分からず、何度も尋ねつつようやく辿り着く。

 6試合こなし、2位となる。

 緑が多く、なかなか良いテニスクラブだった。

 

  • 長久手グリーン・テニスクラブはその後何度か経営者が交代したようです。何の縁か、現在私のホーム・コートになっています。

 

10.17

 弁護士会の委員会。8名集まり、自由に語る。

 弁護士会活動に対して、違和感のようなものを感じている。何故だろう。

 弁護士の持つある種の傲慢さが鼻につくのだろうか。

 弁護士には、優秀な人が多い。財力・地位にも恵まれている。

 反面、傲慢な一面がある。

 私がそれと無関係とは言い切れないかもしれないが・・・気をつけなければいけない。

 

10.27

 審理を終え、判決を待つばかりの事件で、裁判官から、しつように和解を勧められる。

 和解は出来ないと、はっきり告げてあるのにかかわらずだ。

 裁判を受ける権利を奪うものではないか、との疑問を感じてしまう。

 

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かけだし弁護士の頃 (14)

かけだし弁護士の頃 (14

 

1985.9.17

 千種高校の学園祭。長女と長男は、一日中入りびたりだ。

 小さい子供に対しても、千種高校生は相手をしてくれるようである。

 

  • ※ 借家から千種高校の正門が見えました。当時小学生だった長女と長男は、学園祭になると入りびたりであり、終わると、後片付けのときに出るいろんな物を貰ってきて、それは楽しんでおりました。

 

9.24

 鳳来町愛知県民の森に長女と行く。「森と友達になる会」の1泊2日のキャンプに参加したもの。

 部屋は、2段ベッドの4人部屋。

 2日とも、山歩き。かなりきつい登りもあったが、素晴らしい滝がいくつもあり、見事だった。

 雨だったが、苦にならなかった。

 夜は、キャンプ・ファイヤーに代わり、キャンドル・サービス。

 夜中に、リーダーに起こされてびっくり。長女が、気分が悪いといって尋ねて行ったらしい。

 薬を飲ませて、寝かせる。

 おみやげは、どんぐり数個と、さわ蟹5匹。

 

  • 愛知県民の森の素晴らしい滝は、あざやかな印象として残っています。いつかまた行こうと思いつつ、なかなかその機会がありません。

 

9.28

 交通事故加害者の事件。業務上過失傷害被告事件という。

 被告人のために、最終弁論をする。

 身内の人が法廷で傍聴している。

 法廷は、弁護士にとって、晴れ舞台である。

 被告人のみならず、傍聴人をも意識して、弁論を行う。

 職務を誠実に行うことはもちろん必要なことではあるが、それが理解されなければ、無いと同じである。

 誠実であることと、誠実に見えることとは、同じくらい重要なことだ。

 そのための工夫・努力も大切なのだ。

 

   ※弁護士2年目に入り、プロ意識が育ってきています。裁判官のときも、本人が「公正であること」と外部に「公正らしく見えること」は、同じくらい重要なことだ、と叩き込まれていました。

 

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かけだし弁護士の頃(13)

かけだし弁護士の頃(13

 

1985.8.18

 残暑が続く。

 香嵐渓に家族で行く。

 子供たちを川で遊ばせる。

 三州足助屋敷で、木工工作する。

 

  • 香嵐渓には、その後も毎年のように行くようになりました。現在も続いています。もっとも、昨今は夫婦2人ですが・・・

特に、晩秋の紅葉時の飯守山は見事です。紅葉の頃は大渋滞になりますが、車の渋滞を避けるには、早朝(朝7時前)に出るのがコツです。

ここには、バーベキューの設備もあります。⇒足助村でのバーベキュー

 

8.25

 朝、一社駅前の、「ポランの広場」に行く。

 設楽農学校の野菜の産地直売があると聞いていたので・・・

 しかし、野菜はなにも無かった。前回のときもそうだった。

 どうしたのだろう・・・

 

8.29

 2泊3日の家族旅行から戻る。

 今年は、恵那と昼神温泉の宿に泊まった。

 妻籠馬篭を回り、天竜川を船で下り、飯田市では水引工芸館を観た。

 子供たちは、旅館のゲーム・マシンで遊ぶのが一番楽しいようであった。

 

  • ※ 家族旅行は、我が家の毎年の恒例の行事でした。いつも、公共の宿を利用しての節約旅行でしたが・・・

前年(名古屋に来た最初の年)は、伊良子に行きました。子供たちが受験期を迎えるまで、家族旅行は続き、その後は夫婦旅行として続いています。

 

9.1

 日曜日、家族でお弁当を持って牧野ケ池緑地に行く。

 セミがとても多い。

 アブラゼミは、動きが鈍くなっており、簡単に手で取れる。ツクツクボウシは元気で逃げる。

 次女は、取ったセミを服に停まらせて、得意顔である。

 

  • ※ このときにとても楽しかったので、その後数年間、夏休みの終わりになると牧野ケ池緑地に行きました。

夏の終わりを迎えたセミは、動きが鈍く、簡単に手で取れますが、子供たちはそれが楽しかったようです。

この緑地には、公園もあり、シーソーやブランコでもよく遊びました。

 

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かけだし弁護士のころ(12)

かけだし弁護士のころ(12

 

1985.7.22

 税理士、弁理士不動産鑑定士を交えての研究会を開く。

 他の分野の専門家の話は、聞いていてもとても参考になる。

今後も、定期的に集まることを決める。

 

7.31

 日中の気温36度の暑い日だった。

 東京の富山県学生寮のS元寮長方に電話する。

 私は、18歳で東京に出て、世田谷区赤堤町にある富山県学生寮で暮らした。

 当時の寮長が、S氏だった。

 背の高い、威厳のある方で、厳しさの中に優しさがあり、寮生からは慈父のように慕われていた。

 電話には、寮母さんが出られた。

 S元寮長は既に90歳。入院中とのこと。

 名古屋で、富山県学生寮出身者による同窓会を立ち上げる予定であることを伝える。

 

   ⇒富山県学生寮の仲間たち

 

8.3

 魚津に戻り、父の納骨。

 兄弟、親戚が揃う。

 

8.16

 国選弁護の事件。

 20歳になったばかりの若者の引ったくり事件。

 但し被害者に軽い怪我をさせた。

 法律的には、執行猶予が可能であり、私にはそれが妥当に思えたのだが、判決は懲役3年4月の実刑だった。

 冷たい裁判だと思った。

 私も以前裁判官をしていたことがある。

 私が裁判官であれば、間違いなく執行猶予にしている。

 それで何の不都合があろうか。

 いわゆる一般予防など、本件の場合は考えなくて良い。

 そんなものは、裁判官の頭の中にあるだけだ。

 不服があれば控訴するのは、検察官の役目なのだ。

 

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かけだし弁護士の頃(11)

かけだし弁護士の頃(11

 

1985.6.3

 家族で、東山公園1万歩コースを歩く。

 次女のペースに合わせて、ゆっくりと歩いた。

 その後、動物園を見る。コアラがよく動いていた。

 

6.4

 恐喝事件の弁護人として、被害者宅に謝罪に行く。

 このような事件では、被害者は被告人と会うことを、拒む。

それで弁護人が代わりに会うわけだ。

被害者方に行き、被告人に代わって頭を下げ、示談金を渡し、厳罰は望まない旨の上申書を書いていただく。

裁判において、これを刑の軽減のための証拠として提出することになる。

 

6.14

 設楽農学校で開かれるシンポジウムに出席する予定。

 設楽農学校は、脱サラしたU氏が、設楽町で始めた農学校だ。

 私も脱サラした立場の者として、共感を覚え、U氏の発展を影ながら応援している。

 

   ※設楽濃学校のHP

 

6.24

 設楽農学校のシンポジウムに参加する。

 設楽町まで、車で90分余りかかった。

 参加者は、教師、消費者関係の方、産地直売の農業関係の方など・・・

 産地直売の野菜の購買を、勧誘される。

翌朝解散。

多くの方といろんなことを話して、久しぶりに開放感を覚えた。

 

7.15

 離婚の後始末の、家具の運び出しのために、岡崎に行く。

 このような場合の立会いも、弁護士の仕事なのだ。

 これまで夫婦間のトラブルが、山ほどあったので、今日も何かトラブルのではないかと気が重かった。

 案の定、午前10時頃に私が着いたときは、口論の真っ最中であった。

 なんとか宥め、荷物の運び出しに取りかかる。 

 その間も小トラブルが絶えなかったが、何とか荷は出した。

 私は頭痛がしてきたため、早々に帰って寝る。

 

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かけだし弁護士の頃(10)

かけだし弁護士の頃(10)

 

1985.4.26

 名古屋弁護士会主催の講演会「死刑台からの生還」を聞く。中小企業センター。

 松山事件の斎藤被告、青木弁護人、徳島ラジオ商殺しの西嶋弁護人らが語る。

 その語るところに、共感を覚えた。

しかしながら、裁判所を無能扱いする表現には、なじめない感じを受けた。

 自分が裁判所にいたためだろうか・・・

 

4.29

 天白こうのすテニス・クラブのダブルス大会に出る。

 ペアは抽選で決まる。K氏と組む。

 本戦は1回戦で敗れ、コンソレーションに回り、決勝まで行く。

 決勝で、T・Y組に5-6で敗れる。

 すっかり日焼けする。

 

5.2

 弁護士になった1年前と比べると、ほんの少しだがとっかかりが出来ている。

 知人も増えた。この芽を伸ばし育てていくほかない。

 弁護士仲間での友人が出来ないのは、予想外だった。

 でも、委員会に今年から入ったことだし、何とかなるだろう。

 

5.4

 歩け歩け大会で、御岳駅まで行き、みたけの森を歩く。

 椎茸の原木を1本買う。

 椎茸の菌が植えられており、1年後に実り始め、3年ほどもつという。

 

5.8

 教育委員会から、電話で、妻に中学の代用教員の話が来る。

 近くの中学でもあり、嬉しい話である。

 問題は4歳の次女のこと。保育所に預けねばならなくなる。 

 不憫だが、ここは我慢して貰おうと、夫婦で話し合う。

 翌日、教委に受諾の旨を連絡したが、既に他の人が受諾したとのことで、撤回となる。

振り出しに戻ったわけで、がっかりする。

 教育委員会としては、代用教員の補充は緊急な必要時であり、候補者に次から次と連絡して意向を尋ねているわけだ。

電話を受けたときに、即決しないと、他の人に回ってしまうことは、当然ことなのだろう。

 

   ※妻は以前中学の教師をしていましたので、代用教員に申し込んだものです。

    その後、代用教員の話はありませんでした。

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